徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
無題(WE HAVE RECEIVED ORDERS NOT TO MOVE)
1982年
写真
180.0×120.0
バーバラ・クルーガー (1945-)
生地:アメリカ合衆国
データベースから
クルーガー無題(WE HAVE RECEIVED ORDERS NOT TO MOVE)
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バーバラ・クルーガー 「無題(WE HAVE RECEIVED ORDERS NOT TO MOVE)」

吉原美惠子

 画面の中に、文字を見つけることができます。それは、コラージュの作品などに持ち込まれたような、他の印刷物の切り抜きにある文字などではなくて、この作品に寄せて、作家から発せられた強烈な一文です。文字まで持ち込んで、観る人に何かを訴えたいというのは、主に広告のやり方ですね。ここでは、文字と共存させた印象的な画像や、強い色どうしがぶつかり合うコマーシャルの世界を垣間見る思いがします。かつて、絵描きたちが嫌っていたはずの、このような商業主義的な色彩の扱いや文字の取り込みを、これほど大胆にしてみせた作家は、どんな人なのでしょう。
 バーバラ・クルーガーは、1945年アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューアークに生まれました。デイヴィッド・サーレと同じく、最初は、華やかな広告業界に身を置く時期を持ち、コピー・ライターとしても大いに活躍しましたが、その後、現代美術家に転じ、自らの制作にその経験を実らせて、新しい表現の創出に成功したのです。1974年の個展を皮切りに、ほとばしるような作品の数々を産みだし、話題をさらいました。それは、現代社会の中で、日々生産されては消費されてゆく、商業広告の手法を強く意識しながらも、それとは一線を画すものとして、入念に仕組まれた美術表現だったのです。クルーガーは、資本主義社会におけるメディアのあり方や、美術のあり方を冷静に見つめ、研究し、知り尽くしたうえで、作家活動に転じたとも言えるでしょうか。
 さて、この作品に刻まれている印象的な文字は、まるで昆虫の標本のように、画面に張り付けられた女性の、横向きに座ったシルエットを背景にしています。それはまた、思うように動けない女性の叫び声のようにも見えます。「私たちはずっと、自分の思うように行動してはいけないんだって、言われ続けてきたの」と。
 「私たち」というからには、この画面の中のたった一人の女性は、孤独な立場ではないのでしょう。そして、この「私たち」を考えてみると、これはどうやら「私たち女性は」と読んでも差し支えないようです。彼女はきっと、ここでは「女性」を象徴する立場にある一人なのでしょう。そして、これまで数多くの女性が、社会の中でさまざまな制約を受け、窮屈を強いられてきたことを訴えているのです。
 この作品において、クルーガーは、ある特定される人ではない、固定的なイメージを極力避けました。けれども、彼女の作品に立ち現れるイメージには、ハリウッドの有名な女優や作家自身の身体の部分を、それとはわからないように、うまく取り込んでいるのだといいます。特定の人ではないけれど、コンピュータの画面操作によって造り出されたクールなイメージは避けたかったということでしょうか。生身の人の姿を組み合わせた、実在していそうで、実はどこにも存在し得ない人の姿で、「社会における女性」の立場を皮肉っているのかもしれません。あるいは、シルエットだけの女性の姿は、特定されないけれども、どこの誰でもあり得るということかもしれませんね。
 クルーガーは、このように強くて短いメッセージと印象的な画像の組み合わせで、現代社会における人間存在のありさまや、物、権力と人間性との関連、人間の欲望など、さまざまな問題をシャープな表現で、分かり易く示してきました。とりわけ、女性であるクルーガーが、社会の中の女性の立場に目を向けた作品は、他の女性作家たちに大いに影響を与え、美術の世界に、時代を反映するフェミニズムの風を吹き込んだ仕掛け人の一人となったのです。
 ところで、クルーガーの作品には、どこにも作家のサインを見つけることができません。これは、彼女が「芸術はサインがあるから価値があるというものだという考え方を信じてはいない。また、そうあるべきではない」という信念を持っているからだと言います。ですから、「これが街なかの広告でなくて、現代美術の作品だというのは、どういうことなのか」と、クルーガーの作品発表の場で、途方に暮れたように佇んだ人々は多くいました。また、実際に、街なかで作品が発表されたこともあリ、気づかぬ人もたくさんいました。
 社会の中での美術の役割が大きく変わろうとする時代を、クルーガーは、ニューヨークとロサンジェルスの間を繁く往き来しながら、今も刺激し続けているのです。
徳島県立近代美術館ニュース No.55 Oct.2005 所蔵作品紹介
2005年9月
徳島県立近代美術館 吉原美惠子