[研究ノート] 近代水墨山水のなかの人物(下)

 水墨山水には、古くから漁師や釣り人の姿がよく表されてきました。見落としてしまいそうなほど小さくても、大切なモチーフとなっていて、とくに中国では、庶民の姿の他に、隠棲する人、何ごとにもしばられず自由に生きる人の象徴としての意味が込められていました。

 文学や哲学とも響きあっています。たとえば、『楚辞(そじ)』では、理想にやぶれた屈原(くつげん)と、年老いた漁師の自由な立場を対比させています。周の呂尚(ろしょう太公望)の逸話では、在野にいる優れた人材を表し、陶淵明(とうえんめい)の「桃花源記」では、桃源郷にたどりついた唯一の人物として描かれています。漁師や釣り人のイメージには、豊かな意味が重ねられていたのです。中国の知識人たちは、山水画にそんな漁師の姿を見つけ、心の中の自由を楽しんでいたのでしょう。

 しかし日本では、室町時代に禅宗のお坊さんが水墨画を受け入れたことから、自由な精神の象徴といっても、仏教の道を体得した人としてのイメージが加わっています。漁師だけでなく、旅人や山道を歩く樵にも修行者としての姿が重ねられ、牛とともにいる牧童は、禅の修行の段階を示す「十牛図」が意識されていました。いずれも中国からもたらされた題材なのですが、意味の重点が違っていたのです。

 では、明治以降の山水画や風景画のなかで、人物はどのように描かれていたのでしょうか。いくつかの流れがあるようですが、まず挙げられるのは、日本の美しい四季の移ろいとともに暮らす世俗の人としての姿です。

 川合玉堂が描く人物に、そんな性質がよく表れています。〈湖畔連雨図(こはんれんうず)〉(1912年)の漁師は、古い水墨画のように少ない筆数で描かれながら、雨にしっとり濡れた後ろ姿が、叙情的な気配をただよわせてます。そして、彼が得意とした鵜飼の漁師たちは活気に満ち、山道を行く人も、新しい作品になるほど生活感があふれ、語り合う人の顔の表情まで読みとることができるほどです。

 玉堂は、円山四条派の平明な写生を身につけた後、東京で狩野派を学び、両者を溶け合わせようとした画家でした。〈湖畔連雨図〉の漁師と、前回ご紹介した狩野芳崖の漁師を比べると、日本の風土のなかで暮らす人としての特徴が備わりつつあるのが分かります。

また、京都の円山四条派を受け継いだ竹内栖鳳の屏風、〈雪中孤鹿、雨中曳牛〉(1898年頃)には、「十牛図」の「騎牛帰家(きぎゅうきか)」をもとにした牛に乗る人物を見つけることができます。近代の画家たちは、このような古くからのモチーフを使いながら、もともとあった図像の意味を弱め、四季の美しさを演出し、自らの理想や秩序感を表していったのでしょう。

 さて、近代の山水画、風景画の人物表現には、もう一つ大切な流れがあります。人物の内面や、人生、人の生きる意味を表そうとする傾向です。点景人物とは言えませんが、横山大観の〈老君出関〉(1910年福井県美術館蔵)の老子は、顔の厳しい表情で人物の心理まで描き出そうとしています。約束ごとで何かを象徴させるのでなく、同時代の人物画の成果も活かした具体的な描写です。もちろん大観には、中国山水画の点景人物を踏まえた作品もあることから、古典を学びつつ新たな模索をしたものと言えそうです。

 大観の次の世代となる小杉放庵の〈雪に人物、羊〉に表された人物は、長い髪を後ろでたばね、深い雪のなかを羊を連れて歩く西洋の聖人のような姿をしています。古い旅人のイメージを土台とし、静かな表情の人物像をつくりだしています。そして、昭和初期の作品、入江波光〈帰り来る舟〉(1938年)では、嵐のなか、漁師が舟を必死で立て直し、帰港するようすが描かれています。

 このように見ていくと、画中の人物は、伝統を受け継ぎつつも新しい意味を帯びているのが分かります。中国の山水画を捉えなおそうとする大観らの試みがある一方で、多くは、日本の美しい四季のなかで暮らす人として描かれ、隠逸の象徴でなく、満ち足りて暮らしていたり、苦労を乗り越えようとしたりする、生身の人間として描かれているように思います。それは、中国的な山水の世界を、日本の風景に置き換えただけでなく、人間と自然、それをめぐる秩序についての意識も変化していることを示しています。


徳島県立近代美術館ニュース No.56 Jan 2006
2005年12月
徳島県立近代美術館 森芳功