美術館ニュース #107

日下八光(はっこう)(1899―1996年、本名:喜一郎)は、現在の徳島県阿南市羽ノ浦町で生まれた日本画家です。美しく味わいのある風景画を描き、模写の分野でも大きな業績を残しました。およそ150点を出品する本展は、彼の画業を見渡すはじめての回顧展となりました。ここではそのアウトラインをご紹介しましょう。

作品画像 祖父の後押しと進学
日下は小さい頃から絵が上手で、県立富岡中学(現・富岡西高校)卒業後の進路を決めるとき、父親に「美術学校に行きたい」と相談すると、「貧乏絵描きというやないか。絵描きになるのはあかん」といって許そうとはしなかったといいます。それに対して祖父は、「喜一郎は上手やから、見どころがある。」といって進学を後押ししたそうです。おじいさんは絵を見るのが好きだったといいますので、孫の才能を見抜いていたのかもしれません。 日下は1919(大正8)年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に優秀な成績で入学しました。

卒業制作の3部作
東京美術学校時代の日下は、熱心に写生を行い、そこに日本の風土感を込めようとします。歩いて自然を体感し、それを表す制作スタイルでした。 卒業制作は、東京郊外の風景を描いた〈武蔵野三題〉です。西洋画から学んだ写生と日本画の筆の線を活かした作品が生み出されました。1点は母校に買い上げられましたが、所蔵者が分かれたため、3点が並ぶのは卒業後今回がはじめての機会となります。

作品画像 若い頃の支援者
力をつけていくと、認めてくれる支援者が現れます。東京だけでなく、阿南自動車協会(現・徳島バスの前身の一つ)社長・髙山武一のように地元から応援する人も出てきました。日本画家としての活躍は、支援する人たちの夢ともつながっていたのでしよう。〈童女〉(1923年)は東京の支援者の娘を描いたものです。

一級の舞台で活躍
卒業後さらに研鑽を積み、当時一級の舞台だった帝展(帝国美術院美術展)や新文展(文部省美術展)で作品を発表していきます。第15回帝展の出品作〈秋深む〉(1934年)は、さまざまな秋の色が重なり、美しい色彩のハーモニーがつくられています。当時の評論では、わざとらしさがなく「なかなか味のある出来」と評されました。

心情と響きあう風景
戦前期の彼の風景画には、動物が小さく描きこまれることがあります。〈晩秋〉(1932年)では乗り手のいない馬が首を下げ、寂しそうに歩いています。〈秋深む〉の画面下には一羽の烏が描かれています。彼はその意味について語ることはありませんでしたが、馬や烏のようすと風景の表現が響きあっているのは間違いありません。 日中戦争がはじまり、美術界の内紛があった時期の作品〈野末〉(1939年頃)では、骨を奪い合う野犬から逃れるように、烏が飛び立っています。そこには画家の心情が込められているのかもしれません。

戦前から戦後へ
終戦の前年、1944(昭和19)年に彼は母校・東京美術学校の教員となります。はじめて受け持った教え子を学徒出陣で戦地に送った年度でした。日下は、戦時の混乱で学生たちに返せなかった作品の返却を、妻に託して亡くなります。届けられた作品を見て泣き崩れる遺族もいたといいます。そのようなエピソードを知ると、終戦翌年の作〈高原の春〉(1946年)は、桜の咲き始めた季節と新しい時代への希望が重ねられているように思えてきます。柔らかい光に満ちた光景です。

作品画像 装飾古墳壁画の模写
美術学校は戦後、大学に昇格し、日下は東京藝大教授として後進の指導に力を入れます。しかし、1950(昭和25)年頃を境にして画壇から距離をとり、公募展に出品するのをやめてしまいます。一徹・潔癖なところがあり、大勢に順応しなかった日下にとって、戦後の画壇は馴染みにくかったのかもしれません。 代わりに力を入れたのが、九州や東北にある装飾古墳壁画の模写でした。最初は文化財保護委員会(現・文化庁)から依頼された仕事でしたが、次第にその魅力にとりつかれます。古墳時代の名もない画工の制作を追体験し、素朴な表現のよさを伝えようとしたのです。 湿度の多い石室にこもり、徹底的に観察し原寸大の模写を仕上げていく作業には、大変な忍耐が求められます。さらに、現状模写と研究をふまえて当初の姿を再現する復元図も表します。その探求は定年後も続き、96歳で亡くなる直前まで行っていたといいます。残された模写は膨大な数となりました。本展では、国立歴史民俗博物館の協力を得て大作を含む9点を展示します。

  写生画と朝鮮風景
日下は、魅力的な写生画も残しています。日本だけでなく朝鮮や中国の風景、人物や花、静物など題材は多彩です。そのなかでも、昭和初期に朝鮮各地で描いた写生画について、ぜひ触れておきたいと思います。美術学校から、朝鮮総督府博物館(現・韓国国立中央博物館)に派遣され、中国の西域からもたらされた壁画を模写したことがありました。その折に写生した旧王宮の景福宮、京城(現・ソウル)市内、仁川(インチョン)、水原(スウォン)、慶州(キョンジュ)、平壌(ピョンヤン)などの風景が残されているのです。それらは、いま見ることのできない風景の記録として、韓国の研究者も注目しています。彼の多彩な画業は、国際的な関心も惹きつつあるのです。

作品画像 おわりに
彼の日本画と模写が同時に展示されたことはこれまでなく、写生画の全貌が公開されるのもはじめてです。それらの作品は、日下が日本絵画の魅力を探求するなかで結びついたものでしたが、一堂に会することで新たに見えてくるものもあるはずです。この展覧会をきっかけにして、日下の画業が広く再認識されることを願っています。 また、韓国の研究者、博物館の学芸員を招いた「日下八光を知る講座」(10月28日)などの催しも行います。こちらもぜひご参加ください。

(学芸交流課長 森 芳功)