徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
影の自画像
1964年
ラッカー キャンバス
65.1×53.2
高松次郎 (1936-98)
生地:東京都
データベースから
高松次郎影の自画像
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高松次郎 「影の自画像」

吉川神津夫

 高松次郎が1998年に亡くなってから、もう20年が経ちました。1960年代の半ばから70年代にかけては、国内外で様々な賞を受賞し、現代美術界のスターとも言える存在でした。没後も何度も回顧展が開催され、三年前には東京国立近代美術館と国立国際美術館の二館で別の切り口による回顧展が開催されたほどです。没後なお、強い関心を持たれている作家なのです。
ところが、高松の作品は一見したところ、すごく素っ気ないもののように感じられます。
 例えば、<日本語の文字(この七つの文字>(1970)という版画の作品があります。この作品には「この七つの文字」とシルクスクリーンで縦書きに刷られているだけです。しかし、よく見るとこの文字数と記されている内容は一致しているのです。もし数字が七ではなく、六や四なら足りていない文字や余っている文字があるのでしょうか。そんな疑問がこの作品から生じてくるのです。
 また、1960年代初め、高松は紐を用いた作品を発表していました。紐は延々と伸ばすことが可能ですが、その終わりはどこにあるのか。高松は、一本の紐を今現れている世界が不完全な状態であることを象徴しているものとしてとらえていたのです。
 このように高松は作品を通じて、様々な問いを発信していました。
 今回紹介する<影の自画像>が含まれている影のシリーズも、そのような作品の一つです。ふつう、影は光が人や物に当たって生ずるものです。しかし、影のシリーズでは文字通り、影だけが描かれているのです。描かれた影は単なる影の絵ではなく、影の元になる実体はどこにいったのか、という疑問が生じてきせる契機となるものなのです。
 ところが、この作品のタイトルには「自画像」という言葉が入っています。影は匿名のものですが、不在の実体は、自分自身だと言っているのです。 また、絵筆を持った人物の影がキャンバスに赤い絵の具を塗っていることもこの作品の特徴です。この赤い部分だけが影ではなく、現実に存在するものです。キャンバスに描かれた絵画という点では、影も赤い部分も変わらないのですが、意味的には異なるものです。
 それでは、なぜ高松は影のコンセプトが曖昧になるこの作品を描いたのでしょうか。画家である自分自身さえ、実体の世界から消しているにもかかわらず、なぜ、赤という影との対比では強調される色彩を用いたのか、ということです。
 しかし、キャンバスに塗られた赤色は影ではありませんが、影を生み出す実体でもないのです。絵具を重ねて描かれた絵画も同様です。高松は実体のない世界の入口として絵画をとらえていたのではないのでしょうか。そして、画家はその媒介者であると。
 高松はその生涯の中で、様々な作品を生み出してきました。その多くが、一定の時期で終わるものであったのに対し、影のシリーズだけは断続的に制作されています。高松の思考の原点のような作品であったからではないでしょうか。
徳島県立近代美術館ニュース No.108 January.2019 所蔵作品紹介
2019年1月
徳島県立近代美術館 吉川神津夫