徳島県立近代美術館
学芸員の作品解説
唐仁原希 a portrait of a boy
窓辺の金魚鉢と娘(仮題)
1928年
油彩 キャンバス
93.0×54.0
高崎剛 (1902-31)
生地:東京都
データベースから
高崎剛窓辺の金魚鉢と娘(仮題)
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高崎剛 「窓辺の金魚鉢と娘(仮題)」

江川佳秀

 現在ではあまり耳にすることがありませんが、20世紀の終わり頃、「ヘタウマ」という言葉が流行ったことがあります。技術的には下手な(下手に見える)絵だが、その下手さが新鮮で、かえって個性や味わいになっているという意味です。美術の素養と無縁な自己流の絵であったり、あるいは下手を装った計算づくの絵の場合もありました。
 「ヘタウマ」という言葉が登場するよりはるか昔の作品ですが、高崎剛の〈窓辺の金魚鉢と娘(仮題)〉はその先駆けといえそうです。白人の少女が籐椅子に腰を下ろし、こちらを向いて肘をついています。脇のテーブルの水槽には金魚が泳ぎ、その奥にベランダの手すりが見えます。パリのアパルトマンの一室でしょうか、高崎が暮らしたパリの日常を彷彿とさせます。しかし少女のプロポーションもテーブルや水槽の形もちぐはぐです。
 高崎は1902(明治35)年東京に生まれました。どこで学んだかはっきりしませんが、日本時代から美術の修業をしていたらしく、1924(大正13)年、後に画家として名をなす高野三三男、岡田謙三、岡上りうと連れたってパリに渡りました。当時のパリはエコール・ド・パリの全盛期で、世界中から成功を夢見る美術家が集まり、個性を競い合っていました。高崎もその一人でした。
 もっともパリに着いた当座、高崎は華やかな街の雰囲気に染まり、絵も描かず放蕩生活を送っていたようです。しかし、高崎と親しくしていた藤田嗣治によると、4、5年目頃から精力的に制作を始め、「ドンゝ面白い絵を描くやうになつた」といいます。そういう藤田自身も自分がパリに着いた当座は、高崎と同じように「ボンヤリ遊び廻つていた。その間に日本で覚えたものを、スツカリ洗ひ落してしまつた」「それから初めて自分の仕事に取りかゝつた」、それと同じ経路を高崎がたどっていると述べています(藤田嗣治『巴里の横顔』實業の日本社 1929年)。
 放蕩生活を通じて高崎が洗い落としたものとは、日本で受けた美術教育であり、美術の常識だったのでしょう。そして個性を競い合うエコール・ド・パリで高崎が自らの個性として打ち出したのは、一見稚拙にも見える「ヘタウマ」でした。1928年頃からはアンデパンダン展やサロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌなどに矢継ぎ早に出品しています。
 しかし、藤田らに将来を嘱望されていた高崎でしたが、1932(昭和7)年病のためパリで客死。享年30歳。若くして異郷の地で亡くなったため、現存を確認できる作品は限られています。国内の美術館に収蔵されたのは、本作品が3点目です。
徳島県立近代美術館ニュース No.124 January.2023 所蔵作品紹介
2023年01月1日
徳島県立近代美術館 江川佳秀